「アジアは通じる」抜粋
2017年1月10日
2003年の作品「帰路」は顔が完全に消えてしまった奇怪で、空虚な表象を見せる。これは空いた顔、消えた顔、穴が開いた顔である。
顔はなんの言葉もなく、表情も動きもない虚空に変わっている。
この作品を通じて石田徹也が表現したかったのは何んだろう?顔に開けられたあの黒い穴の中に、まるで、幽霊のようにあるいは記憶の片鱗のように虚空に浮き上がっている子供は誰なのか?顔を持っていた頃の挫折された夢が幽霊のように浮き上がった無の空間へ顔が除去された時、この顔の所有者は世界とどんな関係を結んでいるのか?これは「希望がない者」の顔なのか?希望がないというは何を意味しているのか?「希望なし」というのはいつ、どういうふうに現れるのか?
我々がよく考えていることとは違い、希望は未来に対する楽観的な心の指向ではない。希望はいつも難関の中の希望、希望を持たない状況の中でも、わき出る不思議な心の発動である。「アウシュビッツ罪囚たち、飢餓と内戦で破壊されたアフリカの人々、数千のエーカーの森のせいで絶滅に至ったアマゾンの老人たちのほぼ、魔術に近い希望なしの希望」というのが存在する。希望と絶望はそうして、機械的には対立されない。絶望の端から希望が湧き出たり、客観的な可能性が遮断された状況にも不思議に希望が咲く。
このような点から見ると、日本のロスジェネの自画像という別称と呼ばれる石田徹也のあの「共同化された顔」は希望なしその自体が消えていく顔、そうして、希望なしと希望ありの区分の中に存在する希望のしつこい回復胆力性でさえ消失されていく顔の兆候が見えたりする。そういうな点から、あの顔はそれを眺める者を深い不安に落ち込む。
「アジアは通じる」抜粋
著者;イ・ゼヨル&イン・ヒョンジン
日本語翻訳;イ・ソヒョン(多摩美術大学芸術学科4年)
Language
日本語